村田整珉
生没年:1761-1837(宝暦11-天保8)
江戸後期の鋳金家。
江戸の木村氏に生まれる。1776年(安永5)神田鍛冶町に住む田川珉武について鋳造の技術を学んだ。のちに田川氏の後見となり,両氏の姓をあわせて村田を名乗った。総次郎と称し,整珉北玉叟と号して神田竜閑町に住した。
1815年(文化12)4月東照宮二百年忌に際し,将軍家斉および紀州侯,尾張侯より,日光山に進献する幣串の台の製作を命ぜられた。この作品にはみずからの名を記さなかったが,普通〈大日本東都住 北玉叟整珉〉と鋳銘を入れている。蠟型鋳物に巧みで,京都の鍋長(なべちよう)(鍋長兵衛,1825年没),初代竜文堂の作に匹敵する。